慰霊の日雑感

去る6月23日はサッカーW杯によって、沖縄以外の報道機関ではほとんどおざなりにされていたが、沖縄慰霊の日であった。
1945年6月23日というのは単に日本軍の司令官が自決しただけであり、実際にゲリラ戦は9月まで続いたことから、この日を「慰霊の日」とすることは沖縄内では一部異論もあり、私もその意見に同感ではあるが、一方でこの日に多くの沖縄の人々が改めてまだ来ぬ平和を渇望し、この日に向けて現地報道が沖縄戦について回顧するような企画を多々流すのも事実である。今年は機会があって21日から23日までを沖縄で過ごした(断っておくが、観光ではない)が、それは現地で非常に痛感した。ただ、今年は慰霊の日が金曜日であったことから、午前中の那覇空港には本島から出掛ける家族連れも少なからず見受けられた。また、本来沖縄県内では休日の扱いであるが、空港に向かうモノレールでは通勤客の姿もあり、オフィス街の久茂地がある県庁前駅ではかなり下車する人が目立った。最低でも沖縄県内においては、今の基地問題にも連なる沖縄戦の記憶は風化していないし、風化しようもないと思うが、こんな部分にも沖縄の「本土化」の進行を感じる。
私はスケジュールの都合から平和祈念公園での「追悼式」に出ることは断念し、昼過ぎの便で羽田に向かった。どうせなら多少無理してでも行っておくべきだったかもとは思うが、行かないが故に印象的な場面にも遭遇した。空港の出発ロビーで見た現地ニュース(OTVだったはずだ)、平和祈念公園からの中継で若い男性アナウンサーが発した「まだ戦争は終わっていない」という静かな言葉。その後の全国ネットの中継では口にしなかったが、かえってそれだけにその思いが強く伝わる。沖縄に生きていれば当然の実感だろう。でも私がそれを身を以て知ったのはたかが数年前だ。沖縄に訪れる観光客は年間約540万人(2004年)という。リピーターも含めてこの言葉の重さをどの程度の人達が痛感しているだろうか。せめてその3分の1、いや、5分の1の100万人のヤマトンチュがこの言葉を噛みしめ、何らかのアクションを起こすだけで、今よりは沖縄問題は進展すると思うのだが。
ニュースといえば、NHKでは朝の全国ニュースで老いた「おばぁ」が「にくい。戦争は二度としたらいかん」とインタビューに答えていた。NHKでは「(戦争が)にくい」、とご丁寧な字幕スーパーを用意していたが、彼女が「にくい」のは何だろうか。NHKのアナウンサーや、TVの向こうにいる視聴者、私も含めた「ヤマト」と、未だにヤマトのお墨付きの下、島に居座る「アメリカ」でないかというのは、邪推が過ぎるか。仮にそうだとしても、その怒りを満足に解くことは今の私には出来ない。いや、「一人の力では出来ない」と言うべきか。悔しい、もどかしい。
夜のNEWS23では、毎年恒例となった慰霊の日特集があった。よく調べているし、筑紫哲也の沖縄に対するスタンスは、ヤマトの報道人の中では最も積極的で理解があるとは今更ながら思う。でも、このジャーナリズムの先人も、結局は沖縄を愛しこそすれ、赦しを請うているかというと、疑問が残る。勿論、何の影響力もないところでぐだぐだとこんなことを語る私より、彼のほうが遥かに沖縄に貢献しているのは言うまでもないが、それでもこの部分は(私の思い上がりであろうと)指摘しておきたい。彼がそういう姿勢を明確に表明すれば、日本国内では今以上のバッシングを受けても、「沖縄ブーム」はもう少しましな形で到来したのではないか。沖縄報道の功労者であるからこそ、余計にそう思う。
番組の最後には沖縄出身で、地元に対する発言も多いCoccoが登場し、「陽の照りながら雨の降る」を歌い、筑紫、佐古両キャスターと対談した。歌詞の全引用は著作権上の問題もあるので行わないが、「陽の照りながら〜」は恐らく、Coccoなりに離れた故郷を想う歌だろう。しかし、むしろヤマトンチュこそ、この歌を沖縄に捧げるべきではないか。「許さないでわたしを 失くさないであなたを」。その問いすら傲慢であるかもしれないけど、無神経でいるよりは、沖縄とヤマトの関係を好転させると思うのだ。