NHKスペシャル「ワーキングプア」

表題番組はNHKによる格差社会告発ドキュメンタリー。非正規雇用や零細農家問題は新鮮味に欠けるきらいはあるが、それでもこのようにまとまった形で「景気回復」の闇を描き出した試みには一定の評価をしたい。
小泉改革というより、1995年の「新時代の日本的経営」発表以降の新自由主義の潮流においてなされた政治、経済の変化が何をもたらしたか、この番組においてはその具体例のうち、代表的なものは一通り網羅されている。地方の切り捨て、若年層の雇用悪化、中年層の格差拡大に伴う「教育格差」の発生、医療負担増。少々下品であるが、これに所謂「セレブバラエティ」を組み合わせると、新自由主義化の日本の標本が出来上がるであろう。
私は懐古主義者ではなく、かつての田中角栄並び自民党田中派に象徴される、過剰な公共工事を行うことで地方への再分配を目指す制度を必ずしも賞賛しようとは思わない。結果としてこの手法は地方の政府依存を招き、地方の真の自立を阻んだ側面がある。しかし、その手法は正しくなかったにせよ、一時的には格差を是正したのは事実である。また、民間に転じても、一社終身雇用は柔軟性に欠け、時に会社への異常な帰属、忠誠心を求められる側面もあったが、それでも雇用の安定をもたらした。しかし、今、負の側面に代わる正の部分、光は存在するか。かつての制度は光を失い、闇のみは今尚生き続けている。新自由主義は旧時代の打破には何ら役立たなかった。規制緩和により新富裕層は一時的に出現した。しかし、彼らのうち、旧体制をも打破せんと志した者たちは、大きな力に屈することとなった。残った比較的従順な面々も、バブル紳士のように消えゆく運命にあると私は考えている。その上で残る光とは何か。結局、元々持てる者のうち、特に狡猾な者のみにより富が集中するのだろう。私は国益、国籍という概念は必ずしも信用していないが、そういう観点も含めれば、国外への富の流出も当然ある。しかし真の問題はそれよりも、光なき大多数の者の行方である。番組に登場した、痴呆症の妻を抱える秋田の仕立屋の老店主は、東北訛りで「貧乏人は死ねという時代ということか」と語ったが、大筋でこの言葉に同意せざるを得ない。かつてモータリゼーションの進行による交通事故の急増が「交通戦争」と揶揄された時代があったが、今の状況を何と言えば良いのか。国家による自国民の無差別大量殺人は、一般に武装反乱への報復という形態程度しか考えられないが、そういった今までの常識、想像力を超えた事態がある。飢饉による餓死なども通常、一時的なものである。恒常的な国家による自国民への殺戮が罷り通るのは、ポル・ポト政権のカンボジアや現在の北朝鮮など「特殊な」国のことであり、それも一応は彼らの基準で「反政府的」であれば、であろう。仮に体制に従順であろうと、無差別に生存権を脅かされる事態は、どう説明すればいいのか。通常、そういった事態に陥れば、政府は交代を余儀なくされる。かつては武力による転覆しか手法はなかったが、今はひとまず、選挙による穏便な革命が制度上可能である。まずは選挙で「改革者」たちに否を告げなくてはならない。交代する適当な勢力がないと考えるなら、作り出すのも手だろう。NHKアナウンサーは貧困層に自己責任論を問う向きに対し、取材した人達に努力していない人は誰一人としていなかったという趣旨の発言をした。これは公共放送の性質上精一杯の抵抗とは思うが、私はそこから一歩踏み込んで、最早戦争状態である、と述べたい。ただ、国家同士の戦争以上に逃げ道のない、そして、直接的暴力ではないが故にかえって抵抗の難しい、厄介な戦争である。それでも、この問題の本質を掴み、抵抗しなければならない。当事者以上に抵抗する者はあり得ないからだ。