スポーツについて語る以上は

国士舘大学サッカー部に引き続いて、亜細亜大学野球部員が三面記事的スキャンダルを起こし、新聞には連日関連記事が出てきていますが、恐らくは過去の同様の不祥事と同じように、部員個人の問題として最終的には処理され、母体そのものは一時的な活動自粛をするものの、その後は何事もなかったかのように残っていくと思われます。
勿論、日々技術向上に励む他の選手もいるわけだし、願わくば、それが大多数であって欲しいとは思うのですが、ただ、この手の事件が起きる度思うのは、現状の選手育成システム(野球、サッカーに限らず)の問題点ということです。
大学、特に私大の「スポーツ特待生」のレベルまで行くと、その多くは所謂「スポーツ・エリート」になります。彼らは幼年期からスポーツ一筋に生活を送り、メジャー競技であれば高校あたりから特別扱い、ということも珍しくありません。その中で果たして人間的に健全な成長が遂げられるのか?という指摘は、今に始まったことではないのですが、この問題は長年疑問を問いかけられながら、実質放置されています。また、「スポーツ・エリート」のもう一つの問題点、明大・一場投手の事件に象徴されるような、プロのマネーゲームの誘発と、その誘惑に耐えられない(そりゃあ、大学生が札束積まれたら、一場じゃなくても自制するのは難しいだろうけど)未成熟と、選手を守るはずの指導者側も下手をするとブローカーとしてその一端を担っているという、構造的腐敗も忘れてはならないでしょう。一場事件と国士舘サッカー部、亜大野球部員の不祥事は、そういう意味では根っこは同じではないかと思います。スポーツについて語り、競技者、観戦者としてその悦楽を享受する以上は、こういう問題も直視する義務があるという姿勢を、私は取ります。
しかし、根本的に私はスポーツが(見るのも、ほどほどにやるのも)好きですし、新潟でのJFA震災復興支援試合のように、スポーツが世のために役立てる事も数多くあると信じています。人間のやることですから、不祥事がこれで最後、とは行かないでしょうが、この事件を機に、現行のアマチュアスポーツのある種の不健全性にメスが入ると良いのですけれど。