大事をなさんとするならば

今日、キャンプの休日中に喫煙していたことが発覚したとして、日本ハムファイターズダルビッシュ投手が謹慎を言い渡されたというニュースがありました。スポーツ選手として、運動能力、特に野球、ピッチャーの場合、スタミナに影響を与える煙草を吸うのは、意識に問題があるということはありますが、それはさておき、本当に彼は今年、大事をなそうとしていたのかという疑問が生まれてきました。
私自身は煙草はやりませんが、別に高校生が吸っていても「しょうがないな」と思う程度であるし、特別嫌煙家ではありません(除食事時)。未成年だからけしからんとか、社会人としての自覚がどうこうとか、そういう表面的で道徳臭い話もしようとも思いません。私自身、そういう話は聞くのもするのも嫌いですし。ただ、少々堅い話ですが、個人として、一プロ野球選手として大事をなす―この場合、試合で活躍して結果を残し、自分の何らかの目標を達成する、ということでしょう―ことを考えた時、なぜこんな下らないことでつまずく必要があったのかというもどかしさはあります。これは、事件としてはかなり質が異なりますが、寝屋川の教師刺殺事件の犯人とされる少年にも、共通して思うことです。
確かに煙草をやめるのは、常習化してしまうと難しいとは言え、それは目標の実現から考えれば、些細なことでしょう。今回のように事が発覚した場合の、目標達成に与えるダメージを考えれば、到底吸えたものではないはずです。まして、彼は去年も同じように、写真週刊誌のスクープから喫煙に関し、警告を受けています。その教訓も生かされてなかったことになります。
大事をなさんとする人間には、良い意味での警戒心が必要でしょう。そのために自己を押し殺すのはナンセンスですが、最も高い目標を実現するために、つまずくような要素を自分である程度制御しなければならないし、時に他の欲を抑えなければならないこともあります。これは限られた有名人に限らず、志を持つ人にはある程度共通する問題であるはずです。
一言で言えば、お前、そんなところでつまずいて悔しくないのか、ということですが、彼の場合、同時に目標実現の可能性に近づいた存在でもあり、より勿体無いというか、自分の立場を理解していないと言わざるを得ないでしょう。
まあ、Noblesse obligeノブレス・オブリージュ)という概念が偉い人に不足している日本で、18歳の高校生に自分の立場を考えよ、と言うのも酷かも知れませんが、他人の振り見て我が振り直せ、例え全く高潔な立場になかろうと、志ある以上は私もまた、大事をなす為の意識を持っていくつもりです。