理知的批判

批判という言葉を手元の辞書で調べると、「物事のいい点については正当に評価・顕彰する一方、成立の基盤に関する欠陥については徹底的に指摘・検証し、本来どうあるべきかを論じること」(新明解国語辞典三省堂)とあります。私も、大体はその定義に則ってそういう行動をするよう心掛けてはいるつもりです。
しかし一方、人間は理性だけで成立しているわけがないので、感情的・生理的拒絶というのも存在するわけです。こういう時も、理知的な「批判」の域まで持ってこよう、というのが、批判的精神、知的精神を尊ぼうとする場合基本ですし、それを屁理屈と言われればそこまででも、私は自分が感情的に受け付けないものほど、逃げ口上として批判材料を揃える癖があります。まあ、それを実際使うかはまた別ですが。
ただ、ここで疑問が二つあります。批評の主体が人間である以上、客観的批判には限界があるのではないかということ、そして、世の中、特に非公式の場であれば、どちらかというと多少感情的なぐらいで丁度受けが良いと言うか、理知的批判をあまり必要と感じない人の方が多いのではないかということ。それでも私はそういうものを求めてしまうのですが・・・・。
ブログといえど、問題の難易や病巣の深浅を問わず、正攻法の批判で行きたいというのが私の考えですが、この辺これを読んでくださっている皆様からご意見を頂きたいところです。